海外で大きな事件や事故が発生した際、日本の報道では「日本人の被害者はなし」という表現がたびたび使われます。
この一言に安心する人がいる一方で、「なぜそんなことをわざわざ言うのか」と違和感を持つ人も少なくありません。
この記事では、その表現が使われる理由と背景を、外務省の安否確認体制や報道文化、国際比較の視点から深く掘り下げ、誤解されがちな意図についてもわかりやすく解説します。
なぜ報道で“日本人の被害者の有無”が強調されるのか?
外務省の安否確認業務と問い合わせ対応
日本の報道機関が「日本人の被害者の有無」をいち早く伝えるのには、外務省の危機管理業務が大きく関わっています。
事件や事故が海外で発生すると、在外公館(大使館や領事館)には大量の問い合わせが殺到します。
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「家族がその国に出張中で心配です」
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「旅行中の友人と連絡が取れません」
このような安否確認依頼に迅速に対応する必要があるため、外務省は現地の警察・医療機関・航空会社などから情報を収集し、一定の確認が取れた段階で“日本人の被害者の有無”を公表します。
これは、「被害なし」を発表することで不安な家族・知人の問い合わせを抑えるという実務的な目的もあるのです。
報道は「情報の整理」として伝えている
報道機関は、外務省の発表を受けて「日本人被害者なし」と伝えています。これは決して「外国人の命を軽視している」という意味ではなく、
「視聴者(=多くの日本人)の“自分ごととしての関心”に答える情報」
として、整然と伝えているにすぎません。
つまり、「まず自国民の安否確認がどうなっているか」というのは、世界中どの国でも重要視される情報であり、日本もそれに倣っているということです。
他国の報道との違いはあるのか?
欧米の報道スタイルとの比較
欧米(アメリカ・イギリス・ドイツなど)の報道では、「○人死亡・負傷」といった全体的な情報をまず報じ、自国民が含まれている場合にのみ「○名のアメリカ人が死亡」と付け加えることが多いです。
ただし、「自国民の被害者がいないこと」をあえて報じる文化は、日本ほど強くはありません。
これは次のような背景によります:
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自主的安否確認が前提: 欧米では親族・知人が自主的に安否確認を行う文化が強く、公的機関の介入が限定的。
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国際ニュースの枠組みが異なる: 日本よりも国内ニュースの比重が高いため、外国での事件を深く掘り下げない傾向がある。
日本は国民に「安心」を届けることを重視
日本では報道の役割の一つとして「視聴者の不安を和らげる」ことが期待されており、その一環として「日本人被害者なし」が伝えられるのです。
これは倫理的な軽視ではなく、文化的な優先順位の違いによるものであり、日本特有の報道の在り方と言えます。
日本人被害者の安否報道に「違和感」を持つのは悪いことではない
グローバルな価値観とローカルな報道の間で
私たちがこの報道表現に対して違和感を抱くのは、「人命は平等であるべきだ」という人道的な視点が備わってきているからとも言えます。
確かに「日本人さえ無事ならいい」というニュアンスに感じられることもありますが、実際にはそうではなく、
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不明なままにしておくと問い合わせが殺到して混乱を生む
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関係者(家族・会社)に安心を届ける必要がある
という実務と倫理のバランスの中で行われている情報発信なのです。
他国の人命を軽視しているわけではない
日本の報道機関や政府は、決して他国の命を軽視しているわけではありません。単に「情報として、まず自国民の被害の有無がどうか」という点に焦点を当てているだけです。
これは他国の報道でも、自国民が巻き込まれていれば真っ先に報じるのと同じ構造であり、「冷酷さ」ではなく合理的配慮なのです。
まとめ:「日本人被害者なし」という言葉の背景を正しく理解する
「日本人被害者なし」という表現の背景には、報道文化・外務省の実務体制・国民の心理的安心といった多くの要素が絡み合っています。
一見、排他的・内向的な表現に見えるかもしれませんが、その本質は次のように言い換えることができます:
「いち早く必要な人に必要な情報を届けるため、そして無用な不安と混乱を抑えるための報道対応」
国際ニュースをより深く理解するためには、報道の構造そのものに対する理解と、文化的な前提の違いを意識することが大切です。
違和感を持つことは自然なことですし、それを出発点にして報道を多角的に捉える視点が、情報リテラシーを育てる一歩になるでしょう。